過去の研究

生き物の非平衡物性

 生きた細胞や生体組織の内部を顕微鏡観察すると、各種オルガネラや脂質・ベシクル等が活発に運動する様子が観察されます(movie 1-1)。また同じ細胞を顕微鏡の倍率を下げて長時間(24h)観察すると、全体としてひとところには止まらず、常に動き回っていることが分かります。細胞内部では自発的に力が生成され、強い非平衡状態を作り出すことで、細胞遊走(movie 1-2)や分裂、物質生産、細胞内輸送といった各種の生命現象が営まれています。最近になって、細胞の性質は"活きの良さ"(非平衡度、力生成)に強く依存することが分かってきました。わたしたちはマイクロレオロジーと呼ばれる手法を用いて、細胞内に分散させた微細な粒子の「自発揺らぎ」と「外力に対する応答」を観測しすることで、揺動散逸定理の破れとしてその”活きの良さ”を計測することを目指しています。培養細胞や簡単なモデルシステムの観測を行うことで、生き物の非平衡物理を理解することを目指しています。 

 細胞の物理的性質は、細胞を構成する物質の組成や構造だけではなく、細胞内の非平衡度(活きの良さ・力生成)に強く依存します。その理由を理解するためには、細胞の力学特性と非平衡度を同時に直接細胞内で計測する必要があります。私たちは、AFMや光ピンセットと光干渉法を組み合わせたマイクロレオロジー計測を用いてこれを行っています。

 細胞内部には細胞骨格(アクチン、マイクロチューブル)と呼ばれる適当な剛性を持つ繊維状の蛋白質高分子があります。細胞骨格は細胞内部でネットワークを構成し、人体における骨格と同様に、細胞に力学的な安定性を与えます。この細胞骨格上で、モーター蛋白質(ミオシン、キネシン)がATPの加水分解に伴い形態を変させることで、細胞内部に力が発生します。これは人体において筋肉が果たす役割に似ています。

非平衡ゲル

 私たちの体の硬さや形状が骨格とその付随組織(筋肉)により決定されるように、細胞にも硬いたんぱく質繊維からなる骨組みが存在し、細胞骨格と呼ばれています。私たちの体では、骨格を取り巻く骨格筋肉が力を生み出しますが、細胞内部では、ナノメートルサイズの分子機械(モーターたんぱく質)が細胞骨格と結合して力を生成することにより非熱的な揺らぎが発生します。
 細胞や生体組織はあまりに複雑すぎるために、「揺らぎ」と「応答」を観測しても現状ではその解釈が困難です。そこで細胞内部で力を生成する細胞骨格の主要な構成要素であるアクチン(細胞骨格たんぱく質)とミオシン(モーターたんぱく質)だけを抽出して、力生成するゲルを作りました。わたしたちはこれを非平衡ゲルと呼びます。出来上がった非平衡ゲルを顕微鏡観察するとまるで生きているかのように見えます(movie 2-1, 2-2)。

架橋せずに絡み合ったアクチンゲル中でミオシンが力生成した場合に観測される非平衡揺らぎ

 

架橋したアクチンミオシンゲル中における定常的な非平衡揺らぎ

 ゲル中にコロイド粒子を埋め込むことで、非平衡ゲル内部の揺らぎを可視化しました。このようにコロイド粒子の運動する様子から周囲の媒質の力学的な性質を求める手法は、マイクロレオロジーと呼ばれます。安定した架橋構造を持つアクチン・ミオシンゲルでは、ミオシンが力生成することで粒子が激しく揺らぐ様子が観測されます。とても硬い架橋構造のために、ミオシンが力生成していないとこのようなコロイド粒子の運動を観測することはできません。燃料であるATPの濃度が低下するとともに、それまで空回りしていたミオシンモーターがゆっくりと力強く力生成するようになり(左上)、やがて架橋されたゲルすらも自らが発生した力によって崩壊します(右上)。
 架橋されたアクチン・ミオシンゲルは、培養細胞と同様の力学的非平衡状態を示す”生きている細胞骨格”です。私たちは、この試料の非平衡挙動を測定するための新しい実験的手法を開発し、生き物の性質が、生きている(非平衡)がゆえに、平衡状態におかれた物質の性質とどのように異なるのかを研究しています。さらに最近では同様の方法論を、”本当に生きている”培養細胞や組織(癌、ニューロン、骨細胞 等)に適用することで、モデルシステムで得られた知見が本物の生命活動の理解に有用であることを示しつつあります。 生命活動とは生体を構成するソフトマターの非平衡挙動であり、これを科学の言葉で定量的に記述することが、今日の物理学の主要な研究課題の一つとなっています。詳しくは下記の解説記事や原著論文をご覧ください。

 

 

細胞の力学知覚の物理メカニズム

 人がたたかれると痛いように、細胞もたたかれると痛がります。これを細胞の力学知覚現象(メカノセンシング)と呼びます。ここでは、細胞の両側に光トラップを利用してコロイド粒子を付着させて力を加えました(movie 4-1)。その結果細胞が痛がってNO(一酸化窒素)と呼ばれる物質を放出する様子を観察しました(figure 4-2)。NOと結合して蛍光発生する指示薬を使っています。

 

細胞は、加えられた力を検知するだけではなく、周囲環境の力学特性(硬さ)も検知しています。私たちはものの硬さを計測するときには、力を加えて応答(ひずみ)を観測します。細胞も、自ら発生させた力を周囲環境に加えることで、周囲環境の硬さを計測しています。自ら発生させた力を周囲環境との境界で検知しているのですが、その際に力の伝搬効率が自分の硬さと周囲環境の硬さの比に依存していることを用いていると考えられます。私たちはこの仮説を検証するために、細胞と外部環境の境界に接着させた微細粒子の「揺らぎ」と「応答」を観測することで、揺動散逸定理の破れとして、細胞が発生させた力が周囲環境に伝搬する効率を求めました。詳しくは下記の解説記事や原著論文をご覧ください。